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ついにきた!徳川家康ゆかりの神社
2021年1月2日、ついにきた世界遺産・日光東照宮!
東照宮の大駐車場に車を停めて入場。
ちなみに料金は後払いで600円。
三英傑の一人で、「海道一の弓取り」の異名を持ち、幾度の困難を乗り越えて天下人となり、江戸幕府を開いて初代征夷大将軍となった徳川家康を祀る神社!
国宝や重要文化財の物ばかりで興奮を抑えられなかった。
重要文化財 石鳥居

京都の八坂神社の石鳥居、神奈川の鶴岡八幡宮の石鳥居と並んで日本三大石鳥居の一つに数えられる。
鳥居をくぐり案内板を見ると、あの軍師官兵衛こと黒田官兵衛の息子の黒田長政が奉納したと書いてあるので驚いた!
案内板 |
元和4年(1618)筑前藩主・黒田長政候の奉納。 高さ9m、柱の直径は1.2mの明神鳥居。 花崗岩の石材は福岡県で切り出され、海路・陸路を使い日光まで運ばれた扁額に記された「東照大権現」の御神号は後水尾天皇の御宸筆。 |
黒田長政といえば、松坂桃李をイメージしてしまう大河ドラマファンの俺。
( ̄▽ ̄;)
あと、長政の幼少期が松寿丸で、子役の若山耀人くんが演じて、秀吉の正室おねを「おかか様」と呼んでいたのが可愛かったなあ。
拝観受付所

ここから先は、料金を払わなければ入れない。
当宮拝観券自動券売機(個人券専用)で買うことができる。
Suica等交通系電子マネーが使用でき、英語・中国語・韓国語の3ヶ国語にも対応している。
・拝観時間
4月1日 ~ 10月31日(午前9時より午後5時まで)
11月1日 ~ 3月31日(午前9時より午後4時まで)
※尚、各期間とも受付は閉門30分前に終了致します。
・拝観料
個人(1~34名) | 団体(35名以上) | |
大人・高校生 | 1,300円 | 1,170円 |
小・中学生 | 450円 | 405円 |
あと、便利なセット料金や音声ガイドもある。
詳しくは日光東照宮ホームページ
重要文化財 表門

(左)正面に仁王像、(右)背面には唐獅子。
案内板 |
東照宮第一の門で総門とも仁王門とも呼ばれる。 三間一戸の八脚門で屋根は切妻造。 正面左右に大仏師法眼康音による高さ4mに及ぶ極彩色の仁王像を配置し、背面には狛犬が置かれている。 正面は簡素だが側面には唐獅子や獏の丸彫などが豪壮に使われている。 江戸時代にはここで清め草履に履き替えて参入した。 |
両側にいる仁王像が参拝者を怖い顔で睨み、厳しくチェックしている感じで迫力があった。
重要文化財 上神庫・中神庫・下神庫



表門を入ると、まず目に入るのが三神庫。
表門から見ると上神庫は側面を向いている状態なので、写真は参道をさらに進んだ場所から撮影。
案内板 |
3つを総称して三神庫と呼ぶ。 外部は奈良の正倉院に代表される校倉造を模しており、内部には百物揃千人武者行列と呼ばれる神輿渡御祭奉仕者1200人分の装束や御道具、祭器具が収められている。 上神庫の妻側には2頭の像の彫刻があり、実際の像とは姿が異なることから、狩野探幽が想像で描いたものとされる。 |
百物揃千人武者行列とは、徳川家康の柩を久能山から日光へ改葬したときの行列を再現したもので、毎年5月の秋季例大祭で盛大に開催されているとか。
神庫は、祭りに使う装束などが保管されているらしい。
高野槇

「見ざる、言わざる、聞かざる」でお馴染み三猿の建物の横にある大木。
この木は徳川家光が植えたものだと言うから驚きだ。
案内板 |
悠仁親王殿下のお印は「高野槇」と定められましたが、この高野槇は三代将軍・徳川家光公がお手植えになられたもので、樹齢370年、目通直径1.4m、高さ38mに及んでいます。 高野槇は、日本固有の温暖性常緑針葉樹で、日光のような寒冷地で大木に成長することは極めて稀であり植物学上貴重な存在です。 (栃木銘木百選) |
重要文化財 神厩舎


ついにきた!「見ざる、言わざる、聞かざる」!!
\(^o^)/
何回もテレビでよく見たが、実際にこの地に来て見たかったから感無量!
案内板 |
屋根は前切妻、流造。 妻の飾りと長押上の彫刻などの他は彩色が施されていない境内唯一の素木造の建物である。 内部右側は馬を扱う役人のための詰所で畳敷き。 長押上には子供を悪事から遠ざけるべきことを教える「見ざる言わざる聞かざる」の三猿をはじめ猿の一生をもって人間の生涯を風刺した8面の彫刻が施されている。 東照宮の初代神馬は家康公の関ヶ原の戦い時の乗馬「立黒」で、その後は代々将軍家より奉納された。 |
ここは馬屋で、しかも御神馬専用。
御神馬は祭神が乗る馬のことで、最初の御神馬は徳川家康が関が原の戦いで乗ったとされる名馬。
重要文化財 御水舎(水屋)

神様にお参りする前に、手を洗い、口をすすぎ、心身を清める為の建物。
神社の境内には御水舎が必ずあるが、設置したのは東照宮が最初らしい。
案内板 |
元和4年(1618)、鍋島勝茂候(35万石)よりの奉納。 花崗岩の水盤を中央に配し、水を使うことを考慮し柱は腐らぬよう花崗岩で作られている。 屋根は唐破風。 正面の台輪の上には立浪の彫刻、虹梁の上には波に飛龍の透彫が配されており、桃山時代の豪快な彩色の代表的な遺風とされる。 |
輪蔵

案内板 |
天海版の一切経を収めた建物で経蔵という。 内部には輪蔵といわれる八角形の廻転式大書架がある。 |
分かりにくいが、ようするに、この建物の中に回転式の本棚に書物が収められて、その前に立ち、それを回転させることで、書物を読破したものと見なされる建物が輪蔵というらしい。
その書物が『天海版一切経』と言って、一説には生き延びた明智光秀ではないかと言われる天海大僧正が、徳川家康公の命により上野寛永寺で刊行したものとか。
その書物がなんと6323冊で、1日1冊読んでると17年はかかるので、そのような方式にしたのかもね。
( ̄▽ ̄;)
附・鉄燈籠(南蛮鉄燈籠)

東照宮にある鉄の燈籠は、あの独眼竜政宗こと伊達政宗からの奉納品だというのだから驚き!
渡辺謙の顔が頭に浮かぶ。
案内板 |
仙台藩主・伊達政宗候(62万石)よりの奉納。 ポルトガルから鉄材を運んで鋳造した。 燈籠の竿の部分に「藤原朝臣政宗」の銘がある。 境内には石造101基、銅製17基、鉄製2基、石造五重塔1基の121基の燈籠が現存する。 陽明門直下に譜代大名、陽明門大石段下に外様大名から寄進された燈籠が配され、陽明門内にあるのは東福門院寄進の1基のみである。 |
重要文化財 附・銅燈籠(釣燈籠)

参道からはよく見えないので、鼓楼をまわり裏側から撮影。
なんともオシャレな燈籠だ!
案内板 |
オランダ国からの奉納。 釣燈籠には寛永13年(1636)4月17日奉納と寛永御造営完成の日の銘がある。 |
重要文化財 附・銅燈籠(蓮燈籠)

釣燈籠と廻転燈籠とは別に、鐘楼側にある。
案内板 |
オランダ国からの奉納。 蓮燈籠は廻廊の胴羽目下の燭台と共に寛永17年(1640)に奉納された。 平成12年(2000)には日蘭交流400年を記念してアムステルダム国立美術館にて開催された特別展覧会に出品されている。 |
重要文化財 附・銅燈籠(廻転灯籠)

案内板 |
オランダ国からの奉納。 廻転燈籠の奉納は寛永20年(1643)。 上部の葵紋が全て逆さになっていることから逆紋の廻り燈籠とも呼ばれる。 |
鼓楼

陽明門前の両側に立つ立派な建物があるが、釣燈籠と廻転燈籠がある側が鼓楼。
太鼓を収蔵している楼だ。
鐘楼

逆側にあるのが鐘楼。
この時期は、中の鐘を外に出して修復していた。
本地堂(薬師堂)

鼓楼側の奥にある建物が本地堂。
この建物は日光山輪王寺も管轄しているらしく、日光山輪王寺的には薬師堂という名称になるとか。
明治4年の神仏分離令により、帰属が曖昧になっている。
天井に描かれた縦6m、横15mにおよぶ『鳴き龍』が有名。
龍の頭の下で手を叩くと、実際に龍が鳴くという。
国宝 東西廻廊


壁画かと思ったら、全部、彫刻だった。
制作した職人も凄いけど、これを一つ一つ修復するのも大変だよね。
案内板 |
陽明門から左右にのびる朱塗の廻廊の胴羽目には、東側に16間、西側に9間にわたり狩野理右衛門の下絵になる極彩色の大彫刻が配される。 欄間には雲、胴羽目には花鳥動物、腰羽目には水鳥が天地水と組み合わせて彫り分けられている。 いずれも一枚の丸彫風の透彫、最大のものは横2.3m、縦1mの一枚板が使われている。 |
永久に完成しない豪華絢爛な陽明門
国宝 陽明門

さあ、そろそろくぐりますか!
高さ11m、幅7m、奥行き4.4mの楼門。
案内板 |
508体の彫刻で覆われており、いつまでも見ても飽きないことで、「日暮らしの門」とも呼ばれる。 屋根の上には鬼瓦。軒下には後水尾天皇の御宸筆を像った御宸筆の扁額が掲げられ、その両脇には麒麟が配されいる。 その下には龍と息が二列に並び、さらに下には龍の全身像と龍場。 二階の廻緑の高欄に「千人唐子の知恵遊び」、その下に唐獅子、次に中国の君子の姿。 通路両側の脇の間には随身が控える。 陽明門に見られる多くの人物像は、泰平の世をもたらした徳川家康公の功績を称え、理想的な政治の在り方を示すものと考えられる。 背面にある地紋が逆さになっている「魔除けの逆さ柱」は、物事は完璧であるとかえって魔が差すとの考えから、故意に形を崩したものである。 |

「平成の大修理」で陽明門は期間約4年、約12億円の費用が投じられ、金箔が見事に貼りなおされた!
なんでも508体もの彫刻が施されているとか!
装飾が、これでもかってくらいギッシリで、いつまでも見ていられる!

やってくる参拝者を睨みつけている両脇の随身像。
家紋が織田信長の織田木瓜紋と明智光秀の桔梗紋に似ていることから、織田信長と明智光秀を守り神としている説もある。

陽明門の通路天井には、狩野探幽作の昇り龍(八方睨みの龍)と降り龍(四方睨みの龍)が描かれている。

これが、魔除けの逆さ柱!
グリ紋の模様の柱を一本だけ逆さに取り付けているのは、「建物は完成と同時に崩壊が始まる」という伝承を逆手にとり、わざと柱を未完成の状態にすることで災いをさけるということだそうだ。
国宝 唐門

案内板 |
江戸時代の参拝基準となった門で、ここより昇殿出来る者は御目見得(将軍に拝謁できる身分)以上の幕臣や大名に限られていた。 小規模だが構造手法は極めて斬新卓抜で、屋根は四方唐破風、門全体は胡粉摺りで白く塗られ、柱や扉は東南アジアから輸入した紫檀・黒檀・鉄刀木などの寄木細工。 周囲の台輪の上には古代中国の聖賢の故事を題材にした彫刻が飾られており、いずれも一本の木のくり彫り。 柱には唐木の寄木細工で昇龍・降龍の彫刻があり、屋根には名工椎名兵庫作である鰭切れの龍(昼の守り)と恙とも呼ばれる唐獅子(夜の守り)が飾られている。 |
江戸時代でもそうだったが、現在でも一般の参拝者はこの門を通れない。
なんと、唐門には611も彫刻が施されているとか!
重要文化財 附・銅燈籠(一本燈籠)

案内板 |
東福門院(徳川和子・2代将軍徳川秀忠公の娘で後水尾天皇の中宮)よりの奉納。 この燈籠は御皇室からの奉納品であることから特別に御本社近くに置かれた。 |
重要文化財 神輿舎

案内板 |
屋根は入母屋造、上に千鳥破風をつけ、正面は軒唐破風で下に虎の彫刻が施されている。 3基の神輿が収められており、中央が徳川家康公、右側は豊臣秀吉公、左側は源頼朝卿の神輿。 春秋大祭で御旅所まで渡御するが、前後に千余人が供奉することから百物揃千人武者行列と称される。 内部の鏡天井の金箔地には狩野弥右衛門による天女舞楽の図が描かれている。 |
秋季例大祭で使う神輿が収蔵されている建物。
1基が800㎏もあり、これを55人で担ぐとか!
重要文化財 神楽殿

案内板 |
神様に神楽を奉納する際に舞台となる社殿。 春秋大祭では八乙女がここで神楽を舞う。 舞台は御本社側に向いており、その両側は観客が見やすいよう上に開く蔀戸になっている。 外腰板の花籠のレリーフは当宮の彫刻の中でも見どころの一つ。 |
春季例大祭では、ここで八乙女神楽があるそうだ。
どんな感じで舞うのか見てみたい。
祈祷殿

この日は、新年特別祈祷祭で多くの参拝者が祈禱を受けていた。
結婚式や初宮などの祈祷も行われる。
眠り猫の下を通り家康の墓へ
国宝 眠り猫

東回廊の潜門にあるのが、左甚五郎の眠り猫!
生で見れて感動!
案内板 |
名工・左甚五郎の作と伝わる。 江戸時代には正式には将軍社参の時にしか開かれなかった坂下門の前に位置し、家康公の御墓所に続く奥社参道の入り口を譲る。 裏側に2羽の雀の彫刻があるが、牡丹の花咲く下に日の光を浴びて子猫が安眠し雀が戯れる様子から、強い者が弱い者を虐げることのない共存共栄の平和な世の中を表現していると考えられる。 |
眠り猫の裏には雀の彫刻があり、猫が眠っていれば雀と共存できる。
つまり天敵の動物でさえ、眠っていれば平和だということらしい。
坂下門

江戸時代までは、時の将軍しかこの門から先は行けなかった。
将軍になった気持ちでくぐろう。
奥社参道

案内板 |
廻廊から奥社に至るまでの石段は207あるが、ここからの長い石段は東照宮の建築の見どころの一つ。 階段は一段ごとに一枚石が用いられ、傾斜の部分の石柵は笠も柱も土台も一枚の石をくり抜いて作られている。 寒さの厳しい日光の冬の凍て上がり防止をも考慮したものと思われる。 |
ほとんどの参拝者が息を切らしながら登っていた階段を、俺は一気に登ってやった。
重要文化財 奥社鳥居

案内板 |
天和3年(1683)、石鳥居を改めて唐銅鳥居を建てた。御神号勅額は後水尾天皇の宸筆である。 |
重要文化財 奥社銅神庫(御宝蔵)

案内板 |
御宝蔵は承応3年(1654)創建、外部全体を青銅で包んである。 この御宝蔵には朝廷から家康公並びに東照宮におくられた官符宣命等の文書を収めたものである。 |
重要文化財 石狛犬

案内板 |
松平右門大夫正綱、秋元但馬守泰朝の寄進です。二氏は家康公の遺臣であり、寛永年間当宮造営の功により特に奉納を許された。 |
重要文化財 奥社拝殿

案内板 |
御宝塔に参拝する為の社殿で、将軍のみ昇殿参拝を許された。 建物全体が、黒漆が塗られた銅や真鍮で包まれ毛彫が施されている。 奥社らしい落ち着きを見せた社殿である。 |
重要文化財 唐門(鋳抜門)

案内板 |
慶安3年(1650)鋳工椎名伊豫の作で唐銅製(金・銀・銅の合金)。 扉以外の柱や梁などが1つの鋳型で作られていることから鋳抜門と称される。 当時の豪華な作風を示している。 |
立ち入り禁止になってたので、触るどころか近くにも行けなかった。
重要文化財 奥社宝塔(御墓所)

案内板 |
御祭神・徳川家康公の墓所。 昭和40年、東照宮350年祭を機に公開された。 8角5段の石の基盤の上に更に3段を青銅で鋳造し、その上に宝塔を乗せている。 当初は木造、その後石造に改められたが、天和3年(1683)の地震で破損したため、鋳工・椎名伊豫が制作した現在の唐銅製(金・銀・銅の合金)に造り替えられた。 塔の前には鶴の燭台、唐獅子の香炉、花瓶からなる三具足が据えられている。 |
本当に、ここに徳川家康が眠ってるの?
実際のところは分からないらしい。
徳川家康の遺言で‥
「死んだら遺体を久能山に納め、葬儀は増上寺、位牌は三川の大樹寺に立て、一周忌が過ぎたら日光山に小さな堂を建て分霊して祀れ」
とあるから、遺体は久能山東照宮で、日光東照宮は家康を神化した東照大権現を祀ってるということ?
墓を掘り起こさないかぎり、この謎は永遠に解けない。
過去にタイムスリップして、総指揮した天海大僧正に聞いてみたいところ。
叶杉(樹齢約600年)

案内板 |
諸々の願い事をこの杉の、ほこらに向かって唱えると願い事が叶うと伝えられている。 御参拝の皆様には叶杉の御霊わけとして、叶鈴守を特別に授与しております。 |
近くで見て感じたけど、とんでもない気が宿ってる感じだった。
まさにパワースポット中のパワースポット!
ここで願い事したら、間違いなく叶うだろうね。
五重塔の心柱、ほんとに浮いてる?
重要文化財 五重塔

日光東照宮の境内にある五重塔。
帰りに見物しようと思い、料金300円を払ったらクリアファイルを貰えた。
案内板 |
慶安3年(1650)に若狭小浜藩主・酒井忠勝候が奉納した五重塔が文化12年(1815)に火災により焼失し、文政元年(1818)に子孫の忠進(ただゆき)候により再建されたものが現在の五重塔である。 高さ35m。 心柱は4層から鎖で吊り下げられ、下端は礎石から浮いている。 木造建築の宿命である収縮により心柱が屋根を突き破るのを防ぐために江戸時代後期に発明された工法であり、他に地震や風による高層建築の振動を調整する機能も有する。 |
東照宮の五重塔の建築技術は、あのスカイツリーの制振システム(心柱制振)にも応用された凄い技術。


うーん、いまいち、よく分かんなかった。
( ̄▽ ̄;)
東照宮の外にも重要文化財がある!
石唐門・石鳥居


案内板 |
これは寛永18年東照宮奥社に建てられたが、天和3年震災により破損したので、奥社裏山深く埋められて二百数十年に及んだが、当宮三百五十年祭記念としてここに移建した。 幕府の作業方大棟梁平内氏の設計により巨石から切り出されたもので江戸初期に於ける代表的石造美術である。 東照宮社務所 |
ここは旧宝物館の隣にある人通りが少ない、ひっそりとした場所。
ここに来る人はトイレ目的だけの人。
この場所はグーグルマップにも載っていない。


東照宮の大駐車場から宝物館を通り、お食事処「きしの」の前を通り、道を進むと「公衆トイレ」と書かれた案内板がある所に、その重要文化財がある。
380年前に作られた重要文化財なのに、立ち入り禁止になってないのが不思議なくらい。
是非とも見に行かれたし!
猫キャラが動画で紹介
今回、自分のアイコンに使ってる猫キャラ(ニャンコ坊・天ニャン)をナビゲーターにして動画を作ってみました。
箸休めに、どうぞご覧ください。
総括
奥社拝殿に向かう階段の途中にあった案内板の『東照宮遺訓』が心に残った。


「人の一生は重荷を負うて 遠き道を行くが如し 急ぐべからず」
人生は長く、苦しいことが多いので、辛抱強く努力を重ねて進むべきである。
という意味。
「鳴かぬなら、鳴くまで待とうホトトギス」の家康らしい遺訓だ。
織田家や今川家で人質として育ちながら、今川家滅亡でチャンスを掴み、屈辱の大敗などの経験を積み、生きるため、家臣のために身を削り、辛抱強く生きていき、最後の最後で天下人となった家康の言葉だから、これ以上ない説得力がある。
地道に日頃よりコツコツ努力を続けていけば、必ず夢や願いが叶うんだぞと家康公が言ってくれてる気がした。
俺も大変な人生を生きているが、努力して最後には願いを叶えたいと思った。